岡山大学のすぐそばに住まいがあり、時には学生紛争で警察と衝突する場面を見ながら多感な中高生の時代を過ごしました。幼い頃から鉄道が好きで、蒸気機関車の機関士になりたいという夢を持っていましたが、昭和51年にSLが廃止となり断念しました。公務員の道も考えましたが、医師である叔父を見ていて「医者もいいかなぁ」と思い岡山大学の医学部に進学しました。
4つ上の兄も医師で、叔父と同じ外科医でした。私も外科系に進みたいと思いましたが、彼らの門下に入るのがはばかられて産婦人科を選びました。当時、産婦人科の医局は最初の3年間でいろいろな病院を回ることができたのも魅力の一つでした。そして何よりも、新しい命との出会いがあり、患者さんに「おめでとう」という言葉をかけることができる唯一の診療に、大きなやりがいを感じました。
岡山大学附属病院の医局から、広島県、高知県、鳥取県、香川県、兵庫県と、一般病院に派遣されて、現場の第一線に立ってきました。お産は一人ひとり、一回一回違い、教科書どおりにはいかないので、経験を積むことがとても大事です。母体と胎児、2つの命を預かるわけですから、瞬時の判断と適切な処置、時には手術が必要なこともあります。気になる徴候がある場合には、事態を予測して早めに対処を行ってきたこともあり、母体死亡には1例も遭遇せずに済みました。
お産は時間を問いませんし、分娩も手術も長時間に及びます。「いつまで続けるか」と考えたことはありませんでしたが、56歳の時に兄がすい臓がんで亡くなったことが大きな転機となりました。毎年きっちりと健診を受けていましたし、医師ですから不調があれば気づくはずですが、60歳という若さで亡くなってしまったのです。
同じ年、私も健診で貧血気味だと言われ、胃カメラでポリープが見つかりました。その後、睡眠不足から血圧が上昇してきて、「65歳の定年まで、今と変わりなく続けられるだろうか」と思うようになりました。産科は拘束時間が長く、体への負担が大きい上、週に2~3日手術を行ううちに指先が変形してしまいました。兄が亡くなったのと同じ60歳を機に、お産の現場を去ることを決めました。
しかし、「医師として患者さんの健康に寄り添いたい」という気持ちは変わらず、睡眠や休息がとれる生活をすれば体力的にも十分。住みやすい土地で、婦人科の医師として勤務したいと考えました。高知大学に通う息子のもとを訪れた時に、「久しぶりの高知は明るくて楽しそうな町だなぁ」と感じました。かつて私も高知県立中央病院に勤務した時期があり、当時と変わらずお酒も食べ物もおいしくてとても魅了されました。65歳で定年退職した後、何をしたいか。そんなことも見据えて、高知への移住を決めました。
その後、高知医療再生機構を通じて土佐市民病院にやってきて、3年になります。ここでは、更年期や月経前症候群、膀胱炎などの患者さんを多く診ています。津野町、須崎市、中土佐町、四万十町などの遠方からもいらっしゃって、90歳以上のご高齢の方も多いです。じっくりと耳を傾けて、婦人科の病気だけでなく心身全体を診るようにしています。気になることは何でも話してもらえるよう、信頼関係を築くことを大切にしています。
あと1年半で定年を迎えます。その後は、水も空気もきれいな津野町か梼原町か佐川町に住んで、炭焼きでもしようかなと考えています。可能なら定年後も、「うちの子」や「うちのおばあちゃん」のことも相談できる、家族まるごと診られる「まち医者」に徹してまいります。